第9回 橋本龍太郎と金松堂書店
ねぇ、おかみさん。赤坂の料亭には長いでしょ?
──センセイ。人を妖怪にみたいにおっしゃらないで下さいナ。まだ半世紀が経ったばかりヨ。
十分だよ。ぼくの議員生活より長いや。そうかぁ‥‥それだけの着こなしの美しさには、歳月がかかるってこなのかナ。
──センセイ。何をからかっていらっしゃるのかしら。
ねぇ、おかみさん。この辺りのさ、気さくな昔ながらの本屋さんをご存じだったら教えてほしいンです。
──本屋さん? センセイが一声かけたら本屋さんの方から飛んで来るンじゃありませんか。
おかみ。あなたまで誤解しては困るナ。権力は自分のために使うものではないのだヨ。
──判ってますよ。失礼だったら謝ります。この通り。頭を下げましょ‥‥
ちょっとちょっと、おかみ。よして下さい。ぼくを困らせない下さい。百戦錬磨にはかなわないなぁ。赤坂の本屋さんを教えて下さいナ。
それなら‥‥ってんで料亭の女将が教えたかどうか知りませんが、一ツ木通りの金松堂書店に、国会議員でのちに首相を務めた橋本龍太郎氏(1937〜2006年)がお客として訪れることになります。
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橋本内閣が始まるのは1996年1月11日から。自民党政権とそれに抗う社会党との55年体制と呼ばれた長い政局の時代が終わり、非自民・非共産の連立政権という新しい機運が生まれるものの数年で再び自民党に政権は戻って行く。
政局の動く国会から歩いて行けるのが赤坂の街。メインストリートの一ツ木通りに並ぶ金松堂書店は、橋本内閣2年7か月の間、何と首相が本を買いにやってくるお店として知られるところとなります。
まずは首相のSPたちが金松堂のビルまで下見にやって来た。室内、屋上、お店周辺の建物状況を調査。本来こうした時に当てられる人員では一ツ木通りとお店に支障を来してしまうのでしょうが、特別の配慮がなされ、首相の橋本龍太郎さんはお店にご来店の運びとなります。
厳重な状況の店内で「ごめんね、迷惑かけて」とお店に詫びる橋本首相。
政治家、橋本龍太郎といえば強面で気むずかしいイメージを抱いたもンです。ところが、これが本屋さんでの橋本サンにあっては逆転。気さくで優しい印象を持ったと店主の西家さんはおっしゃいます。
政治家が閣僚クラスで読書の時間をとるのは至難なことだという声も聞こえてきますが、橋本サンがずっと読書家であったことを夫人や知人が回想する記録もあります。
本は自分で買うこと選ぶことを大切にしていた。そういう一面を金松堂の番台から西家さんは見ています。
本にはたいていハガキ(読者カード)が差し込んであります。これに自分の感想を書いて出版社に送る。読者からの貴重な意見として承る。
橋本サンも書き送っていらした。
ハガキは出版社宛なわけですが、出版社はさらに著者へと届けることもある。
ある時、寿司屋のおかみさんが書いた本を読んだ橋本サン。やはり読者カードを送った。出版社からハガキが回ってきた寿司屋のおかみさん、これを見てびっくり。でも半信半疑。同姓同名もありえる。文面に「俺は首相だ」なんてヤボは書きやしませんでしょうからネ。
ハガキには購入した店の名前がある。赤坂の金松堂。番号を調べまして電話をかけます。西家さんが電話を受け取って、
「ええ。それは首相の橋本サンでしょう。ウチへいらっしゃいます」
これが縁となり、その寿司屋に橋本サンは夫人とともに通うようになった話があります。
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橋本政権の期間に発行された新聞記事の首相動静をたどると、決まって土曜日に金松堂に立ち寄っています。
首相が来る本屋、金松堂。店先に物々しい警戒がしかれ、護衛に囲まれ本を探す橋本総理。
それを知らずに来る客もあるわけでして、首相より先に選んだ本や雑誌をレジに持っていこうとするとSPがギロっとにらむ。何さ、こっちだって客だよッ!
その通り。
いくら首相が来ようが、お客様はみな同じお客様。先に並んだ方から西家さんも対応するのは当たり前。
順番が優先される? そんなソンタクしたら、それこそ橋本さん怒ったのではないでしょうか‥‥。
晩年。ひょっこりお店を訪ねていらした。棚を一通り眺めてから、病院から抜けて来た、お忍びなんだヨっていたずらっぽく伝える。
「また来るね」と言い残したのが、金松堂での最後の姿。
首相になっても自ら出向いた本屋の存在。現在と比べましたら、まだまだ産業として出版が華やいでいた頃であったとも思います。書店に行けば世間が見える。お客とお店との距離が近かった。
ありがたかったことにね‥‥。そう西家さんも口にされました。
(つづく)
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文責・板垣誠一郎
参考文献
・「政治家橋本龍太郎」編集委員会/編『61人が書き残す政治家 橋本龍太郎』文藝春秋企画出版部、2012年
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投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部
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