第7回 金松堂書店のリヤカー
赤坂図書館が入るビルは青山一丁目交差点の近くに建っていて、1階にはスーパーの「まいばすけっと」が入っています。
緑の豊かな御用地を間近にしているせいなのか、赤坂・青山の地名が持つブランドには不思議な権威を感じ取ってしまうのは、昭和生まれで地方育ちのDNAにすり込まれたマジックなのか‥‥。そんな思い込みを抱いていた矢先に赤坂図書館の案内を見つけた私め、せっかくなので入館しました。
わき目もふらず眺めたかったのが郷土資料コーナーです。
ここもまた議事録や研究調査報告といったふだん縁遠い分野はもちろん、小説やエッセイの親しみやすいものに渡って赤坂・青山の地域史を学ぶための記録が取り揃えられています。
その中でも出色だったものが2012年に刊行された『語り継ぐ赤坂・青山 あの日あの頃』(港区赤坂・青山地区タウンミーティング『まちの歴史伝承分科会』編、港区赤坂地区総合支所協働推進課発行)でした。
この記録集を言うなれば、地元で生まれ育ってきた人たちの生活の記憶をできるだけ寄せ集め織り込まれた言葉のじゅうたん。
誰が込めたのか赤坂・青山という地名が持つ他では出せないブランドの力が生まれていった歴史は、実はそのじゅうたんの上に置かれていったものだったと、手に取るものに伝わる読み物でした。
赤坂・青山で暮らしてきた人たちの見た町の暮らしには縁日が出ればにぎわっていました。軍隊の町、花柳界の町でもありました。そして戦争が始まりついにはこの一帯も空襲で焼け野原になります。
そこからの復興、ついで東京オリンピック開催が決まって町並みがまた変貌して行く‥‥。今につながる糸と、そこからほぐれて切れた糸が、住民の記憶で編まれていました。
※
一ツ木通りの金松堂書店に戻ります。
店主の西家さんに昔の赤坂の様子をうかがった中で特にリヤカーの話が印象に残りました。
西家さんが子どもの頃、国道246の青山通りには都電がチンチン鳴らしてトコトコ走っていました。
来年には昭和の東京オリンピックが開かれるという時代です。
すでに首都高速道路は出来ていました。でも、当時の子どもの目には今のような交通量ほどの車は連なっていなかった、どこか余裕があった。
ある時、西家少年たちは青山通りのカナダ大使館の隣にある広場に集まります。そこは駐車場なのですが草がボーボーでした。
大人の誰かが言いました。
「みんなで草刈りをする! そしてみんなで野球をする!」
そう聞いた子どもたちの馬力で即席の野球場ができああがりました。公館の職員も野球が好きで、好意で地元の遊び場を提供したようですが、これもまた時代ですね。
この場所はTBSの人気番組『ケーキ屋ケンちゃん』にも撮影で出たンだそうです。
※
西家さんのお父さんは千葉の佐倉にまで召集されました。敗戦後に無事に金松堂が建つ赤坂一ツ木通りへ戻ってきました。
軍隊の解散で兵士になった男たちは兵営にあったものを各々選んで持ち帰る中で、お父さんが選んだのがリヤカーでした。
佐倉から赤坂までリヤカーを引いて帰った‥‥って。そうか、東京湾アクアラインを高速バスのお尻につけたロープで引っ張って行けばスイスイじゃないか!
このリヤカーはお父さんが神田の問屋まで本の仕入れのために使われました。戦後の金松堂書店を支えた仕入れ道具として長く使われたのです。
まァ、千葉の佐倉から引いて来たお父さんですから、神田なんて一瞬ですよね!?
お店にやって来たお客さんの声です。「ねぇ、この前頼んでおいた本、まだ来ないの?」どうやら金松堂に予約した方のようで。
「あら、それなら今日は来るはずヨ」
こう答えるのはお店の看板娘の一人で、西家さんのお父さんの妹、エツコおばさん。
エツコおばさん、お客を連れて店を出て、一ツ木通りを赤坂見附の方まで歩き出します。
「ちょうどね、兄が神田から戻ってくる時間なのよ」
そう言って、国会の見える坂の方をお客と眺めていると、ほら、本を積んだ金松堂のリヤカーがよいしょよいしょ‥‥と近づいてくる。
現在の赤坂周辺とは違い、遠くまで東京が見通せていた時代の話。西家さんがエツコおばさんから聞いた思い出話。
(つづく)
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文責・板垣誠一郎
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投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部
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