第2回 二の橋書店の目録『戦塵冊』
『戦塵冊』は古書店・二の橋書店が販売用に発行していた図書文献目録の名前です。聞き慣れない戦塵(せんじん)というのは戦争のさわぎを指す言葉です。塵はチリ、ゴミ、ホコリのことで、戦塵は戦場となる所で立ち込めるチリ。
人が人を殺す異常な状況で誰かが逃げまどい誰かが追い立てる。そのさなかに立ち込めるチリ。人が人によって命が奪われる。人生が一瞬にして消える。そのさなかに立ち込めるチリ。
『戦塵冊』という名前と向き合う度に、私は自分では経験していないにもかかわらず戦争への嫌悪と無力さを感じます。
『戦塵冊』は28年間に渡って発行されて来ました。第一集の発行は昭和60年(1985)8月15日の日付になっており、最終号となったのは第19・20集(合併号)で平成25年(2013)5月でした。
『戦塵冊』の発行を8月15日の日付にした所に、アジア・太平洋戦争への発行者の思いが込められています。今から75年前の1945年のその日の正午、国民はラジオから流れた昭和天皇の声によって日本の敗戦を知ったといいます。
発行者は田中貢(みつぐ)さん。二の橋書店の2代目を担った方です。
『戦塵冊』は紙面を2段に分け、1ページに文献名を数十点列記して通し番号を付け、欲しい番号を連絡してもらう仕組みの内容です。
毎号冒頭に発行者の挨拶文が書かれていました。発行者の貢さんがお客に向けて発した心の声です。趣旨は目録を年に一度なり顧客に送付することへの発行者の挨拶と特集の説明、時節の世評があって、昔話が綴られる場合もありました。
その昔話を読みつないで見ると、発行者の経験した戦争の様相が少し見えて来るかも知れません。戦争の渦中に巻き込まれた状況を、貢さんの文章を助けに私なりに辿ってみます。
まずは二の橋書店と浅草とのゆかりをご案内しなくてはなりません。
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墨田区本所に今も使われている橋の近くで開業したことで名付けた二の橋書店は今から90年前の昭和5年(1930)に始めた古本屋さんです。創業者の田中義夫さんは俳句好きで、しょっちゅう作句に頭をひねっては携帯する手帳に書き留めていた方でした。
《御挨拶
毎度御引立戴き有難うございます。
本年は当店の創業七十周年になります。昭和五年五月当時本所林町という地名で二の橋(二ツ目橋)の袂に小さな店を開きました。池波正太郎の鬼平犯科帳にしばしば登場する本所二ツ目お薬師さまの弥勒寺の門前でした。毎月八日には縁日も立ち賑やかでした。近くのカフェからはよく「満洲想えば」のメロディが流れていたりして戦時色になる前の閑かな町でした。近くの森下という処には現在長谷川平蔵の屋敷跡という碑が建っています。》(戦塵冊 第十二集 2000年)
64年まで続く昭和の元年は1925年で大正15年にあたります。その年の12月25日からわずか数日が昭和元年。貢さんが二の橋書店の子供として生まれたのは大正14年でした。
《激動の昭和も終わりました。昭和の年号と同じ数だけ生きて来た自分にとって一つの区切りとなりました。
(尤も私は昭和は二十年八月に終ったものと考えておりますので、むしろヤットという感じです。)
その昭和も次第に遠くなり忘れ去られて行くのでしょうが、私のいう昭和(戦前)の歴史だけはもっと掘り下げられてよいと思います。》(戦塵冊 第三集 1989年)
歴史年表をつぶさに見ていくと昭和は翌2年から終戦の20年まで、日本は戦争の道を進んでいったことがうかがえます。戦争末期の沖縄戦や列島各地への空襲と原爆投下の悲劇は今も伝えられるところです。
《私も昭和5年11月浜口首相が東京駅で狙撃された時、偶然にも祖父に連れられて日比谷公園の帰りに騒然とした駅の近くに居た事子供心に憶えています。大正から昭和にかけての暗い不況の時代の表徴でした。》(戦塵冊 第十四集 2003年)
お店のあった本所はじめ下町一帯も昭和20年(1945)3月10日の空襲で多数の庶民の命が失われます。命からがら避難できた人たちによって町は甦ることになりますが、当事者だった人たちの苦難は想像に絶します。
つづく
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文責・板垣誠一郎
紹介
古書 二の橋書店
〒252-0312
神奈川県相模原市南区相南
4丁目1−31
小田急相模原駅 南口(小田急線)徒歩4分
イトーヨーカドー 大通 向かえ側
tel:042-749-9345
https://ninohashi-shoten.jimdofree.com/
2020年8月配信開始 東京のむかしと本屋さん 浅草編 ・第1回 夕刻の日差し ・第2回 二の橋書店の目録『戦塵冊』 ・第3回 二の橋書店の目録『戦塵冊』続 ・第4回 二の橋書店の目録『戦塵冊』続々 ・第5回 二の橋書店の目録『戦塵冊』結び ・第6回 浅草文庫 ・第7回 仲見世の本屋さん ・第8回 木目込人形 ・第9回 座売りの本屋 ・第10回 生活に囲まれた一角 ・レポート 描かれた浅草ゆかりの本屋さん
投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部
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