第7回
駒場の木陰(1)
─旧前田邸・駒場公園─
駒場の木陰に東京のむかしを見つけます。
目黒区の施設として一般に公開されている駒場公園は、戦前まで続けられた華族の住む邸宅として造られた場所に当たります。
日本が他国との戦争をした時代でもあります。
ボクが持っている高校用の歴史年表に見ると、学習能率用に色分けしたキーワードで〝ファシズムの台頭と中国侵略〟〝日中戦争と戦時体制の強化〟で区分される昭和がはじまって数年間の頃に、華族・前田利為(まえだ・としなり)によって、前田邸は造られます。
前田家は加賀百万石の前田利家を祖に持つ名門、お殿様。
実際、昭和になってからも駒場に住んでいた地元の人たちは前田のお殿様と呼んでいたようです。権威というもの、歴史に名を残す血筋というものは、決して武士の時代に終わらず、昭和にも残されていたのでしょうか。
ところが駒場のお殿様、前田利為氏は駒場に居を構えた後の昭和17年(1942)年に亡くなります。戦死です。
前田家を含め日本の華族を扱った『日本の名門100家─その栄光と没落』では前田利為氏の最期を次のように記します。
昭和十七年、太平洋戦争たけなわの頃、ボルネオ方面陸軍最高司令官として最前線に出たが、この年九月北ボルネオの北方海上を飛行中事故にあい戦死した。/死後、大将に昇進。
この当時10才の子どもでありました人の証言が残されています。駒場に生まれ駒場に育ち、前田家から譲られた小学校で学んだ昭和7年生まれの方が後に目黒区の区史に残した証言です。
先の「前田家」といえば、当主の前田候がその後司令官として南方の戦地に赴かれたが、出征の日、私たちK小学校生徒全員が道路に整列して、お見送りしたのを覚えている。当主は不幸にして戦死されたが、遺骨(英霊)の帰られる日、折りしも冷たい秋雨の降り注ぐ日であったが、私たちは道路にひれ伏しお出迎えした。
「昭和七年生まれの区民の回想」より(目黒区『目黒区五十年史』1985年所収)
前田家跡地が戦後GHQに接収された時期を経て、駒場公園が造られて行きました。
園内の入口の門構えの立派さや、入口から伸びて行く歩道と、地面いっぱいにある小石の上に踏み入れてはバランスを崩しながら歩ける今があります。
空を仰ぐように天に伸びる木々に囲まれているうちに、自然と気持ちは和らぎ、その先にある日本近代文学館までのカーブがページをめくるような焦らしを感じさせもしますが、もともとは前田家の邸宅。
この春は園内で調整工事が行われていました。
働く人たちがまるで前田邸で雇われていたという使用人に重ねるのはボクの勝手ではありますが、この敷地には日本が戦争をした時代につながるキオクのヒキダシがあることに思いを馳せることもできます。
邸内の人たちも、駒場の町の人たちも、ある日遺骨となって還された「お殿様」を出迎えた時がこの駒場には確かにあったのですから。
学校の教室では覚える気がしなかった歴史年表のキーワード〝ファシズムの台頭と中国侵略〟〝日中戦争と戦時体制の強化〟を卒業からだいぶ立ってからようやく自分なりにソシャクしています。
前田邸が造られたほどの駒場の地には従って来た人たちもまた移り住み〝別天地〟がこの一帯にできたという経緯を知ると、駒場通りの右手左手に立ち並びますお宅のリッチぶりに思わず〝駒上(こまうえ)〟と呼びたい衝動に駆られます。
前田邸まえから元来た方に戻ろうとすると、ゆっくりと何者かが横切りました。
公園内の木陰に姿を現したのは駒場猫。こちらのカメラに付き合って下さる余裕をお持ちのようす。前田のお殿様の猫とも限らない。撮るなら撮り給えよ、君。
──と聞こえて来るのは風の音。
(つづく)
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文責・板垣誠一郎
参考文献
- 中嶋繁雄/著『日本の名門100家─その栄光と没落』立風書房、1987年(1979年初版)
- 東京都目黒区史研究会/編『目黒区五十年史』東京都目黒区、1985年
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