第4回 由良君美の発信
渋谷駅周辺のにぎわいに気圧されるのを悟られまいとする自分を道玄坂まで持って行き、歴史を記した碑を見つけるやいなや視界を一気にそちらへ集中させるといくらか気持ちが落ち着きました。
やがて松見坂の交差点にまで来たら、先ほどまでの渋谷の街にうごめく落ち着かない奇妙なムードから抜け出たような開放感を勝手に抱くのでした。
まだボクには手元に地図が必要ですが、渋谷駅周辺から駒場東大前駅までの道程を歩いてみると地図で見るよりもずっとつながっていました。
だからもし、駒場の辺りで暮らす人が入り用で探しに行く先が渋谷の街だという感覚には、これからボクも少し共感できるように思います。本についてもしかりです。
今でも渋谷には新刊書店が大型店舗を構えていたり、デジタルデザインの類に特化してカフェを併設する実験的なお店も見られます。
古書店についても往時は多くの店が渋谷駅周辺に営まれていたようです。
ここから本題です。
河野書店に縁のある人物が渋谷駅周辺で営まれていた古書店のようすを書き残した一文を紹介します。これが執筆された時を今年から引き算してみると今からおよそ半世紀も立っています。
《駒場に近い所で探すとすれば、自然、渋谷だが、宮益坂の正進堂と玄誠堂は文学書が割にあり、洋書の掘だし物に富んでいる。道玄坂の文紀堂は全集から文学・歴・法・工にわたり、善本をよく集めている。》
これは「古書の買い方」と題された由良君美(ゆら・きみよし)氏の原稿の一部です。駒場の東大生向け新聞『教養学部報』で1967(昭和42)年に掲載されました。街で見つかる古書店の存在が教養を身につける上でどれほど大切であるかを説く内容ですが、今となっては古い東京の姿を伝える貴重な証言です。
渋谷駅周辺で堂々と歩くには、日々目新しくなる流行を武器に装っていないとならないようなムードを感じてボクは昔から苦手で気後れするのです。古書店が今より街のあちこちにいくつもあった街並みに思いをはせます。本も流行の武器のように抱えていた人はいなかったのでしょうかねぇ、
由良君美氏は東大駒場で英文学者として活躍する一方で一般にも熱心な読者があったようで、世に問うた一連の書名は『椿説泰西浪漫派文学談義』『みみずく偏書記』『風狂 虎の巻』『みみずく古本市』『読書狂言綺語抄』『みみずく英語塾』などどれもユニークで、人の気を引く呪文のようでもあります。
「古書の買い方」を書いた頃から十数年後に一連の原稿を収めた由良氏の本『みみずく偏書記』のあとがきに当たる「あと智恵の弁」で後日談として記した一節はこう書かれています。
《‥‥そこに登場する書物の名前や古書店の名前は、歳月の流れとともにもはや現状にそぐわなくなったものもある。駒場には古本屋がない、と書いているのもその一つで、当時は本当になかったが、現在は河野書店ができたし‥‥》
由良氏がこれを言及した時が、河野書店開業の年、1983(昭和58)年に当たります。
この当時において由良氏が自著のあとがきで駒場東大前駅に現れた河野書店という情報にふれたことは、今とは格段に違った影響力があったのではないでしょうか。
由良氏を知らないボクに河野さんが四方田犬彦氏の書いた『先生とわたし』を薦めて下さいました。大学の恩師と教え子との思い出といえばきれいですが、由良氏にも四方田氏にも会ったことのない読者をハラハラさせる展開です。
由良氏は昭和から平成に変わる頃に世を去ります。「古書の買い方」という一篇のエッセーだけでも由良氏にとって本の存在は人生に欠かせなかったようです。
パソコンもケータイもましてやスマートフォンもすっかり浸透している現代と当時では本の役割や認識は様変わりしています。いま由良氏のように書いたとして、どれだけの説得力があるのか。なぜ街にあれほどあった古書店が姿を消したのか。
ボクはちょうど由良氏の世代と交代するように世の中の本屋に通ってきました。社会のなかで本の役割や認識が様変わりしていることを認めざるをえない気持ちの一方で、でも必死に認めたくない気持ちを抱いています。その思いのなかで渋谷駅から街に出て道玄坂から駒場へ向かって歩きました。
(つづく)
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文責・板垣誠一郎
参考書
- 由良君美『みみずく偏書記』ちくま文庫、2012年(青土社版の単行本は1983年)
- 由良君美『みみずく古本市』ちくま文庫、2013年(青土社版の単行本は1984年)
- 四方田犬彦『先生とわたし』新潮社、2007年(のち新潮文庫、2010年)
〈2018年1月配信開始!〉 河野書店のあたり駒場東大前
投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部
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