[本郷・東大赤門]ペリカン書房と品川力さんと、本郷の町。(第4回)「もう一人の妹」

第4回 もう一人の妹

レストラン「ペリカン」が営まれていた頃の写真が品川力さんの遺品に残されてことで、私たちは80年余りも前の思い出話を立体的にイメージできます。

企画展の図録に「開店当初のレストラン店内」と脚注のついた一枚には、実にたくましい表情で写る品川力さんと弟の工さん、そしてもう一人、約百さんとは別のきょうだいが写っています。

彼女は枝咲(えさく)さんといいました。

「ペリカン」が本郷の落第横丁に店を開いた昭和6年(1931)の春、そのお店にはサービスをする二人の姉妹が、力さんや工さんと働いていたようです。

来店客の中には、店内に流れるクラシックや目の前の料理より、その品川姉妹の美しさに気持ちが向いてしまう人がいたのかも知れません。

ところが枝咲さんはわずか24歳の若さで亡くなります。昭和8年(1933)暮れのことでした。

「昨年の暮に妹の枝咲が死んでからというもの、タイムスにちっとも書かなかったので、ヘタばっていると思ったのでしょうな。」

これは枝咲さん逝去の翌年、ちょうど「ペリカン」の3周年にあたる3月、故郷の新聞『越後タイムス』に載せた品川力さんの言葉です。後年の随想集『古書邂逅 本豪落第横丁』に収められています。

残された姉・約百さんが、詩人として残した一篇「妹のために 碑銘」も紹介しましょう。

散りやすい花の
わけてもその
匂ひを昂めて咲くやうに

日は移り
風景(けしき)はめぐるとも

この身のほとり
なほあざやかに
ただよふは
匂ひにたむ風のむれか

品川陽子「妹のために 碑銘」

枝咲さんの亡くなった年には、品川きょうだいにとってもう一人身近な死がありました。

落第横丁を出て品川力さんと工さんは東大病院(当時は東京帝国大学医学部付属医院)に向かい、入院中の洋画家・古賀春江を度々見舞っていました。古賀は「ペリカン」来店客の一人であり、特に工さんが芸術家になる上で大きな影響を受けた人物でしたが、不幸にも38歳の若さで同じ年(昭和8年)に亡くなったそうです。

こうした身内の悲しみを抱え込みながらも、レストランには東大(帝大)が近いことから多くの才能が訪れて行きながら歳月を重ねて行きます。

(写真)東大鉄門前とその案内板。


小説「夫婦善哉」で知られる作家・織田作之助が「ペリカン」で原稿を書いていた様子を、品川力さんの随想では「僕の店で煙草をくゆらしながら原稿を書いているときなどは一流文士の風格が充分で、はいってくる学生はよく振返っていた」と記されています。オダサク(織田作之助)ファンの一人、岩佐善哉氏は品川力さんとの交流を描いて下さいました。

その「ペリカン」は国が戦争に向かう中で食糧事情の変化が影を落とし姿を消すわけですが、すぐに古書店「ペリカン書房」に生まれ変わります。

(つづく)

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文責・板垣誠一郎

参考文献

  • (図録)『第34回企画展 本の配達人 品川力とその弟妹』柏崎ふるさと人物館、2013年
  • (図録)『平成25年度秋季特別展 品川工 光と影の造形詩人』柏崎市立博物館、2013年
  • 品川力『古書邂逅 本豪 落第横丁(こしょめぐりあい ほんごう らくだいよこちょう)』青英舎、1990年
  • 岩佐善哉「織田作之助と品川力の親交 ─東京遊学、作家デビュー、そして終章「旅への誘い」」(『東京府のマボロシ』所収)社会評論社、2014年

〈2017年3月配信!〉
ペリカン書房と品川力さんと、本郷の町。── その思い出を聞く。

 

投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部

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