[本郷・東大赤門]ペリカン書房と品川力さんと、本郷の町。(第3回)「横丁へやってきたペリカン」

第3回 横丁へやってきたペリカン

宮崎駿氏がマンガの中で品川きょうだいをどのように描いているのかは、実際の本でたしかめてもらうとしても、ここでお伝えすべきは、品川きょうだいがレストランを営んでいた事実です。

落第横丁に実在したそのレストランもしくはランチルームとも食堂とも呼ばれたお店は「ペリカン」と名乗りました。

いまから86年まえのちょうど今頃の時季。昭和6年(1931)3月9日付「帝国大学新聞」でペリカン開店の告知を出したもようです。品川力さんの遺したスクラップ帳に広告の切り抜きが貼られてありました。宣伝文は次のように続きます。

開店披露

純アメリカ式

喫茶と料理

若者の経営するティールームです。

一品好みのショート・オーダー、定食、クイックランチなど味覚百パーセントの腕前をお試し下さい。

お急ぎの御食事に、おひまのお茶に、ペリカンを御利用下さい。気持ちよきサーヴィス ── みなさまのペリカン

      本郷区本郷六丁目二十三番地赤門前昼夜銀行横

                   ペ リ カ ン

「ペリカン」は長く後々まで語り継がれる場所になります。というのも、このお店に来店したお客の中には、世の中に名を残す人たちが多くいたのです。(この話を受け継いで、現代に伝える方の一人に宮崎駿氏があげられます。)

品川力さんご本人が対談で振り返ったり、お客であった方が思い出を綴る資料から来店客の名前を拾うと、織田作之助、太宰治、檀一雄、田宮虎彦、武田麟太郎、立原道造、広津和郎、串田孫一、大塚久雄、大河内一男、牧野英一、中村光夫、鈴木力、安井琢磨、菅谷北斗星、古賀春江、岡本謙次郎、三輪福松、北川桃雄、 大谷藤子、矢田世子、山岸外史、津村信夫、吉野秀雄、鈴木力衛、猪野謙二、杉浦明平、青山光二、中村地平、矢田津世子などが見つかります。(今はネットの時代ですから、ひとり一人を検索してみるのも一興!)

ではなぜ東大(帝大)近くの横丁にペリカンは出店したのか。いま落第横丁は住宅が多くなっていますが、かつてはとても賑わう活気に満ちた横町だったのではないでしょうか──。お店があった昭和10年(1935)頃の横町に並んでいたお店の顔ぶれを記録した資料がありました。

どんなお店があったのかといいますと、駄菓子屋、喫茶(複数軒)、玉突(ビリヤード。これも複数)、洋服屋、酒屋、洗濯屋、古本屋(ペリカン書房とは別です)、乾物屋、床屋、洋服屋、せんべい屋、佃煮屋、そば屋、額縁屋、米屋、炭屋、八百七、製本屋、雑貨屋、魚屋、小間物屋、肉屋、そして下宿や銀行。さらに大工、産婆まであげられています。

横丁でほとんど日用品が事足りるほどの多様な商売。現在では見かけない仕事もあれば、この商売は昔からやっているんだ‥‥という発見ができます。


【写真】品川力さんのアルバムに残されていたランチルーム「ペリカン」と横丁が写された一枚。(提供・品川純)
【写真】品川力さんのアルバムに残されていたランチルーム「ペリカン」と横丁が写された一枚。(提供・品川純)

ちなみに、落第横丁という呼称は昭和11、12年(1936~1937)頃からのものだそうで、その前には床屋が出していた提灯にちなんで「だるま横丁」とも呼ばれていたという話です。

「ペリカン」とともに本郷の町へやって来た品川きょうだい。開店の年は、マスターの力さん27歳、料理担当の工さん23歳、サーヴィスの約百さん26歳という顔ぶれ。それから昭和14年(1939)の夏まで、先に挙げた方々も来店して、クラシックレコードを流し、食事と憩いを提供する営みが続くのです。

(つづく)

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文責・板垣誠一郎

参考文献

  • (図録)『第34回企画展 本の配達人 品川力とその弟妹』柏崎ふるさと人物館、2013年
  • (図録)『平成25年度秋季特別展 品川工 光と影の造形詩人』柏崎市立博物館、2013年
  • 品川力『古書巡礼』青英舎、1991年(初版1982年は上製本)
  • 板垣誠一郎「本の配達人・品川力さん ─本郷のペリカン」(『東京府のマボロシ』所収)社会評論社、2014年

〈2017年3月配信!〉
ペリカン書房と品川力さんと、本郷の町。── その思い出を聞く。

 


投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部

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