第6回 知の巨人・南方熊楠との縁
横川さんのお母さんは、横川荘さんとおっしゃいました。
昭和7年(1932)の開業以来、大学堂書店を夫の精一さんとともに守ってきた荘さんについても思い出話をして下さいました。
父親(先代・精一)はこっちの店を知りませんが(昭和50年(1975)他界)、母親はこちらが開業してからも結局来たことはなかったです。父親が亡くなってからも、自分で店を開けて店番をしていました。いつも文庫本を読んでいましたね。あとね、母親は値札(カバーの裏あたりにつける)を几帳面に書いていた。文庫とかだと付けないことがあるんだけど、それ用の値札もね。
母親は大阪の生まれです。道楽者の家に生まれたために、小さい時に東京にいる上松蓊(うえまつ・しげる)という方の家にお手伝いとして出されました。上松家は裕福でしたので、上京の折に新橋駅から上松の家があった品川の立会川まで「人力車」に乗せられて行った話を聞いたことがあります。
上松家に出入りしていた表具師がいまして、それが父親の実家でした(ひょうぐ:布帛(ふはく)または紙を貼って、巻物・掛物・書画帖・屏風・襖などに作り上げること)。父親はその手伝いをしていたようで、その縁で上松家で働いていた母親と結婚することになるんです。
先代・精一さんが神田の一誠堂での修行を経て本郷・帝大(東大)前に独立します。屋号に「大学堂書店」と名付けたのは上松蓊だったといいます。
上松蓊は、南方熊楠と親交があった人物として南方ファンにはよく知られてた人物なのだそうです。
神坂次郎著『南方熊楠の宇宙 末松安恭との交流』という本があって、大学堂書店をお昼時に訪ねたある日、おかみさんが見せて下さったことがありました。その本には、熊楠が精一さんに宛てた手紙の翻刻が収められています。というのも、先代・精一さんは、和歌山に住む南方熊楠のために本探しに尽力、大変感謝されていたそうです。
先代・精一さんはヘンクツではあったけれども、とても生真面目に古書店を営んでいた。その証拠の一つとして、大学堂書店と南方熊楠との信頼関係をあげることができそうです。
今回、横川さんに先代と上松蓊と南方熊楠との話をうかがってから、和歌山の「南方熊楠顕彰館」所蔵データベースにあたってみまたところ、精一さんが南方家に宛てた書簡があることが判りました。取り寄せた書簡に認められていたのは、南方熊楠が亡くなった直後に、精一さんが遺族に宛てた追悼文でした。横川さんはその書面の筆跡をみて、「きっと父親はこれを書くのにすごく気をつかって、時間をかけたと思いますよ」とおっしゃいました。
書いた文字は人柄を表すといいます。現代は手書きを行う場が限られているので、こうした言い方も古いことかも知れません。でも僕は先代・精一さんの筆跡は一字一字丁寧なのを素直に素晴らしいと思いました。大学堂書店のお客に対する姿勢のようにさえ、感じられてしまうのです。
(横川精一が南方熊楠の遺族に宛てた封書〈南方熊楠顕彰館(田辺市)所蔵〉)
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〈参考文献〉
『南方熊楠の宇宙 末吉安恭との交流』神坂次郎/著、四季社、2005年
「南方熊楠顕彰館 所蔵資料・蔵書一覧」(ウェブサイト『南方熊楠顕彰館 南方熊楠邸』http://www.minakata.org/cnts/shuuzouhin/)
文責・板垣誠一郎
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〈2017年2月10日配信!〉 大学堂書店と本郷三丁目交差点─店主・横川泰一さんにきいた思い出ばなし
投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部
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