第9回 バー・マスコットのムッシュウ
拝啓、大佛次郎様。続けてお便りいたします、さいきんの読者です。
記念館に入ってすぐの展示パネルに作品ゆかりのバー・マスコットが紹介されているのを見つけました。
このお店のことを学芸員の方に訊ねると、小説『おかしな奴』『ゆかいな仲間』『夜の真珠』に名前そのまま出てくるとのこと。よし、ならばお店に行った気分で読んでみようとあいなりました。
いまちょうど、大佛次郎記念館開館時間の終わる夕方5時ですから、時刻に厳しいマスコットの主人、通称ムッシュウがお店の営業を始める所ですからこいつは丁度いい(?!)。
ムッシュウがそれまでの手堅い収入を捨て、ホテル・ニューグランドからも中華街からも、もちろん横浜港からも遠くない横浜のど真ん中のオフィス街に、マダムと数匹の猫(犬も1頭)たちと営んでいたバー・マスコット。
ここにつめかける客人は、日頃は各々立派な肩書きで仕事をするメンツでもありながら、しかしお店ではそんな肩書きは邪魔だとばかりに外に置き、お酒と会話を愉しむ人たちでにぎわっていたようす。
料理を創るのも食べるのも大好き、お客に出すグラスやビール瓶に曇りなどを許さず磨き、そして常連だろうが時間外にはノン!と一蹴、営業時間を守る長身のムッシュウ。
先生が通われ始めて何年後かに日本は植民地を広げるために他国を侵略する戦争をしかけたり、ナチスドイツと同盟関係になっていた時代です。ムッシュウはナチスを嫌い、少しでもそれを臭わせるお客の入店を上手に断った場面が作品にあります。
悪酔いとは人に平気で迷惑をかけることでしょう。自分の政治信条を主張したり強要するのと居合わせたら迷惑限りなし。店主がそこでどういう態度を示せるか、難しいところです。マスコットを実際に営んでらした市川氏は、きっと先生の考え方にどこかで通じる方であったからこそ、作品にムッシュウを創り、戦時色の色濃い時代に現代劇として発表された。
(『夜の真珠』1941年4月〜8月『サンデー毎日』連載。単行本1934年、岡倉書房刊。『明るい仲間』1941年4月〜8月『サンデー毎日』連載。単行本1942年、杉山書店刊。『おかしな奴』1956年2月〜5月『週刊新潮』連載。)
都市横浜のど真ん中で店を構えるマスコットには社会的地位を持った人々が立ち寄りやすかったことでしょう。そのままを小説の舞台にすることで、軍事国家の有り様と人間の葛藤を示すのにちょうどよかったのではないでしょうか。先生は「軽小説」と振り分けたマスコットの出てくる作品は、今となっては貴重な横浜の近現代史の物語だと思うのです。
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酒場の魅力といえば、どれほど社会的地位を持つ人でも一度足を踏み入れた酒場にあっては居合わせた面々と対等であるという暗黙の了解。見た目からがっしりして一本芯の通った心情のムッシュウを審判に据えて、日常では動かしようのない感情の転換すら至ってしまうところかも知れません。
マスコットの場所がもし、あの格式高いホテル・ニューグランドの中であったならば、さすがのムッシュウもホテルの総支配人との関係があって不自由だったのではないでしょうか(?!)。
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バー・マスコットのことは先生が私的に残された日記にも見つけられます。時代の史料的価値を見出されて公刊された『終戦日記』です。(大佛次郎没後の1995年に草思社より『大佛次郎 敗戦日記』として刊行後に増補改訂、『終戦日記』に改題され文庫化された。文藝春秋社2007年刊)
その昭和19年(1944)10月から翌年5月にかけて、先生がご自宅の鎌倉から横浜訪問の折にマスコットへもお寄りになったのが分かります。
お酒も他の物資同様に配給制という制約下に置かれていた頃で、おそらくグラスの1杯1杯がとっても尊い味わいだったことでしょう。執筆での疲れに加えて戦時下の様々な負荷もある中で、さすがの先生も酔いが回りやすかったのでしょうか、帰りの電車で寝過ごしていたのを記してあるのを知って、ミョーな連帯感を抱いてしまいました‥‥。
そのマスコットは、1945年5月29日の空襲により灰燼に帰します。先生は翌日の午後に横浜に向かい、避難場所にいたムッシュウと再会しています。
(つづく)
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文責・板垣誠一郎
参考文献
・『大佛次郎自選集 現代小説 第三巻 真夏の夜の夢』大佛次郎/著、朝日新聞社、1972年(『おかしな奴』を収録)
・『大佛次郎セクション 明るい仲間・夜の真珠』大佛次郎/著、村上光彦/編、未知谷、2008年
・『終戦日記』大佛次郎/著、福島行一/解題、村上光彦/解説、文藝春秋、2007年
紹 介
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大佛次郎記念館
The Osaragi Jiro Memorial Musuem
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投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部
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