連載 ◎ [横浜・神田]東京から来て 天保堂苅部書店 横浜と歩む 第3回 神田神保町時代

第3回 神田神保町時代

神田神保町から横浜野毛坂へ天保堂はなぜやって来たのか。大正5年(1916)であったことは分かっています。

苅部正さんは「古本屋のおじぃさん」と呼んだ天保堂の主人にその当時にどういった事情があったのかを詳しく聞く日はついに来ませんでした。 苅部さんまだ10才の年、昭和17年(1942)に天保堂書店の店主、篠田亮一さんは急逝されてしまうのです。

左が少年時代の苅部正さん。右はお兄さん。2人のうしろに篠田亮一氏。晩年の撮影と思われる。(提供 天保堂苅部書店・苅部正)

篠田夫人や周辺の人びとからの聞き取り、古書店に関する資料、そして自身が覚えている「古本屋のおじぃさん」との記憶を下にして苅部さんは文章にまとめ組合史に掲載しています。

端々に「古本屋のおじぃさん」篠田亮一さんへの思いが伝わるその文章から、私たちには篠田亮一さんの功績を知ることができます。

「古本屋のおじぃさん」こと篠田亮一さんは、明治14年(1881)信州(長野県)の味噌と醤油作りを生業にする家の次男として生まれました。

10代の後半、明治20年代末ごろには上京して、神田の古書店で年季奉公を勤めた後に独立、若手や同業者の会りに積極的に参加していたようです。

とくに、篠田亮一さんも名を連ねる「神田書籍商同志会」(明治43年(1910)結成)は参加条件として地元在住でしかも神田の古書店に勤務経験を有した上で独立した者であることが求められました。

〝ちゃきちゃきの神田の古本屋〟ですね。

これからも篠田さんは上京してから30代まで東京神田で暮らして来た人物だったと考えられます。

少年の時から商家に入り勤労に従事した丁稚の少年や手代と呼ばれた使用人。明治期の古書店には店先で彼らが働いていた‥‥。

この隔世の感も、明治期から昭和期のアジア・太平洋戦争の敗戦まで日本は君主の命で制定された憲法の下で作られた社会であったことがあります。見た目は似ていても本屋さんの底に流れる価値観はずいぶんと異なっていたことを意識させられます。

(大日本帝国憲法 明治22・1889年2月11日発布、翌年11月29日施行。昭和22・1947年5月3日の現憲法施行により廃止)

もう一つ、明治期の古書店に見られた掛け値販売の話。

「いらっしゃいませ。あれ、お客さんまたいらしったンですか」

「御挨拶だね、どうも。来ちゃあ悪いみたいだ」

「そうは申しません。でもねぇ‥‥」

「なんだい、小僧のくせに。客を値踏みするとはいい度胸してるじゃないか」

「だってさぁ、お客さん、どうせ本を負けろって来たんでしょう?」

「当たり前だ。古本を負けねぇでどうするってんだョ、えぇっ? 毎日毎日足を運んで来てんじゃないか。そろそろ安くしないとバチが当たるってもンだぞ小僧め」

「毎日毎日、ご苦労様ですが、あの落語全集は一文も負かりませんって」

「落語だけに落とし話だ。値段も落としやがれっ」

「何度目ですか、そのダジャレ。」

──なんてふざけてたかは判りません。が、古書の値引きのやりとり。高めに値付けしておく「掛け値」販売。明治期神田の古書店売り場ではこれを値切るお客と店とのやりとりが見られたという話です。

この掛け値の慣習をせず、あくまで値引きなしの「正札(しょうふだ)」で販売したことで神田の古書店街に異彩を放った店がありました。

当初はお客に理解されずに大変だったようですが、お客が求めた本探しの労を惜しまず「店の土台は金銭ではなく信用である」と信念を貫いた店主こそ、岩波書店を開いた岩波茂雄でした。始まりは古書店だったのです。

古本屋の岩波書店をひらく半年前の2月末の夜。

ちょうど風の強い夜でもあったらしく、神田三崎町から出火した火の手が、猿楽町、神保町、錦町にまで及び、甚大な被害を与えました。

学校を含め全焼2376戸、半焼54戸。火元となった神田三崎町の名前が市民に一躍知れ渡るほどの大火でした。

被災した一画、神保町交差点に近い「神田南神保町16番地」に新しく貸店が出たのでそこに岩波茂雄は店を構えます。

岩波さんは、せっかちながらも徳な性分で多くの人から信頼を得ており、周囲の方に相談することが多かったといいます。

その岩波さんが天保堂の篠田亮一さんにも開業の相談にやって来ます。話を聞くと、篠田亮一氏と岩波茂雄氏はともに信州の出身。しかも同い年と分かります。

古書店開業の翌年、大正3年(1914)に岩波書店から本の刊行が始まります。

出版社としての処女作こそ夏目漱石の『こゝろ』。

私も高校の授業で文庫を買って読みました。読み返すと、明治の東京の描写が箇所箇所に出てきますが、当時はすっ飛ばしていました。登場する人の心の営みが現在にも通じる展開ですからねぇ。

出版社として歩み出した岩波書店の看板を夏目漱石が書いた話は岩波自身も語っています。ところが岩波書店の看板は他にもあったようで。

「それで、屋号は決まりましたか」

「色々と考えました。店主の名前がすぐ判る方がよいと家族が言ってくれて、岩波書店としました」

「そうでしたか。私もできることは協力しましょう」

「ありがとうございます。それならぜひ篠田さんに看板を書いてもらいたいのです。」

筆に長けた天保堂の篠田さんが書いた岩波書店の看板。おそらく古書店・岩波書店の看板だったのではなかったでしょうか。

このことは苅部正さんが組合史に刻んだ篠田亮一の功績の一つ。お店で語り続ける天保堂苅部書店の名誉話の一つ。

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文責・板垣誠一郎

参考文献
・『神奈川古書組合三十五年史』組合史編纂委員会(代表 高野肇)編著、神奈川県古書籍商業組合、1992年
・『出版人の遺文 岩波書店 岩波茂雄』(栗田書店創業五十周年記念出版)、栗田書店、1968年
・『岩波茂雄傳』安倍能成著、岩波書店、1957年
・『小林勇文集 第三巻 惜櫟荘主人』小林勇著、筑摩書房、1983年
・『明治生れの神田三崎町』鈴木理生著、青蛙房、1978年
・『東京古書組合五十年史』小林静生編集責任、東京都古書籍商業組合、1974年


紹 介


天保堂苅部書店

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「日本の古本屋」URL: https://www.kosho.or.jp/abouts/?id=13000040

住所:〒231-0064 神奈川県横浜市中区野毛町3-134 横浜市中央図書館下(野毛坂) 定休日:月曜日 TEL:045-231-4719  FAX : 045-231-4719 最寄り駅:桜木町駅、日ノ出町駅 facebook(フェイスブック)リンク

2019年2月3日撮影・板垣

2019年2月配信開始!

東京から来て 天保堂苅部書店 横浜と歩む

投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部

「東京のむかしと本屋さん」編集部 メール tokyomukashi@gmail.com