連載◎[水道橋/神田三崎町]神田三崎町と有文堂書店の100年。(第8回)復興・歌舞伎座

第8回
復興・歌舞伎座

ええ、今回のお話は要するに、有文堂の木下サンがまだ高校生時分に、観光客の列に紛れこんで歌舞伎を見ようとしてバレちゃった‥‥っていうだけのお話。

ま、時代は推測するところ昭和30年(1955年)になるあたり。敗戦から10年たったかどうかの頃でございまして‥‥。

──えぇ、「幕見(まくみ)」というのがあるらしいと、誰かに聞いて、友人と二人して出向いた銀座。

ちょうどそこに観光バスがやって来た。

「はぁい、皆様。こちらでございます。一列に一列にぃ。」よく通るきれいな声が聞こえるじゃないか。

バスからぞろぞろ行列が、ガイド嬢に先導されて入っていくよ。あそこはもしや歌舞伎座か。

こりゃ珍しいもンが観られそうだ。ちょっと加わってみようじゃないかってんで、二人して行列に並んでみたら、すいすい中に入れちゃって。

いやぁここが歌舞伎座かぁ、すげえや。

ちょっと、学生さん。

──はい?

あなたたち、何してんの?

──何してんのって‥‥、いやぁ、皆サンが行列してっから、何があったんだろうって思って付いてきたんで。お姉さん、ここはどこなんです?

ここは歌舞伎座。観光ツアー中ですよ。

──あぁ、そうですかぁ‥‥! はっとよく見りゃ、はとバス観光じゃありませんか! ひゃっほぉい!

何がひゃっほいですか、わざとらしい。とっぽい顔して、あなたたち、初めてじゃないわね?

──たはっ! 東京は初めてなんですぅ‥‥。

初めてどころか生まれながらの東京っ子、木下サン。はとバス観光に紛れ込んで、歌舞伎座で芝居を観たという話の真偽はわかりません。

皆さん。ここでちょっと紹介したい言葉、時代を物語る言葉がございます。歌舞伎役者の初代・中村吉右衛門(1886〜1954)が綴った日記から、1945年5月の記事の一節。

五月二十八日
五月二十三日敵の空襲にて、渋谷幸四郎氏宅焼失する。二十四日晩牛込若宮町宅全焼。古川邸お向う川合邸全焼す。この日歌舞伎座、新橋演舞場も焼失する。

五月×日[日付なし]
東京は焼け日光は夏の月
我家も歌舞伎座もなし夏柳

引用:『吉右衛門日記』中村吉右衛門著、波野千代編、演劇出版社、1956年

 

──敗戦の年、1945年の5月。空襲が歌舞伎座のある銀座一帯にまで来たことを教えてくれます。三崎町にも同じ5月に来たことは前に申し上げました。

 

劇場は次々と爆撃を受けて失われてゆきます。俳優は劇場を失えば働き場がありません。(中略)歌舞伎が自然の成行から贔屓(ひいき)を失った時、真の危機が起ります。それは敗戦直後でした。歌舞伎は封建性が強い演劇なので、禁止されるかも知れないという噂を耳にしました。(中略)歌舞伎の危機説など吹飛んでしまいますが、娯楽に飢えた国民は、渇望した潤いとして歌舞伎に押寄せたのです。その潤いが地方都市に行き渡った頃、東京の歌舞伎座が復興しました。敗戦から六年目に当る一九五一年の一月でした。

中村芝鶴「歌舞伎の危機説と未来」より(『歌舞伎随筆』評論社、1978年)

歌舞伎座は一度は戦禍によって焼失しました。それから6年後の1951年、二代目・中村芝鶴氏の言葉をお借りすれば「歌舞伎座の本城」である歌舞伎座は復興したのです。再びお客様をお迎えしておりました。

木下サンが覚えている高校生の時に見上げた建物は、復興して数年後の歌舞伎座です。はとバスもまた、戦後に生まれた愛称だそうです。

実は、木下サン、役者を志望して高校では演劇に取り組んでおりました。ところが、実家の有文堂書店の店主であり父の長吉さんは、明治生まれですでに還暦を迎えて、体にも無理が来ていた。お姉さんたちはあれど木下家の長男である木下サンが家業の本屋を継ぐことになったわけで‥‥。

とは申せ、木下サン、その後も中村歌右衛門(六世)の大向こう(おおむこう)が集う弥生会に加わって、「成駒屋ァ〜」と場内にかけ声を発してらした。

有文堂書店にうずたかく積まれる本に歌舞伎はじめ芸能関係が多くあるのは、自分の好きを通しているわけでありましょう。日本の演劇を研究する方でまだお越しでなかったら、ぜひお立ち寄りのほどを願います。

2017年7月、白山通りを挟んで有文堂書店を写す。(撮影・板垣)

グーグルマップ → https://goo.gl/maps/nULu3n4kP1n

第7回 ← → 第9回

文責・板垣誠一郎

〈2017年5月配信!〉
神田三崎町と有文堂書店の100年。
── 店主・木下長次郎さんにきいた思い出ばなし。

投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部

「東京のむかしと本屋さん」編集部 メール tokyomukashi@gmail.com