[水道橋/神田三崎町]神田三崎町と有文堂書店の100年。(第7回)上野公園の野球場

第7回
上野公園の野球場

野球をしたためしがないもンですから、木下さんから草野球の話が出た時には戸惑いましたが、これもまた有文堂書店100年を伝える面白い話。

戦後の三崎町は、例のイチョウが白山通りに植えられまして、段々と育ちはじめる時代。

疎開先から帰った木下少年が、再び東京のど真ン中、神田三崎町で暮らす日々が始まります。

三崎座跡の建物に鬼ごっこして遊んでた木下少年が、時が移り若者として町を闊歩する昭和30年代。

その頃の娯楽の一つに、野球があった。

ちょっと耳を澄ませば、向うの後楽園球場からプロの快音が三崎町まで鳴り響いたンかも知れません(!?)。

そんなある日、木下青年の前に突如スカウトが現れる・・・!

神保町のハヤシといえば、知る人ぞ知る‥‥工場を営む木下さんより年上のお兄さん。

木下さん、お名前は長次郎さんとおっしゃいますが、「チョーさん、こんどサ、上野で二つ目と試合をやるんだ。ぜひ参加してくれよ」。

──二つ目? なんだか怖いナ、妖怪と試合するんですかい?

──それを言うなら一つ目小僧だ。馬鹿言っちゃあ困るよ。噺家(落語家)連中のことだろうよ。

──噺家と野球の試合? これまたどういうわけで。

──噺家だけに捕ったボールもすぐに落とすからサ。

・・・そんな訳ではございませんが、木下青年が参加したハヤシさん率いる神田のチームが、お天気よろしい上野公園に当時あった球場で、噺家二つ目揃ったチームと一戦交えたのは事実のようで。

ハヤシさんのおばさんに当たる方が、戦前から芸人として活躍した都家かつ江さんでして、そのご縁で二つ目チームと、三崎町の八百屋やらブリキ屋、ついでに古本屋の若者連中集まっての交流戦が実現したとのことでございます。

噺家チームの顔ぶれに、桂小金治、三遊亭小圓遊、春風亭柳昇、柳亭痴楽といった噺家の名を思い出す木下さん。「野球より、芝居をよく見に行ったもんで」と、あいにく自分たちのチームの名前は失念。半世紀も前の思い出。

上野公園には、今現在も小規模ながら球場がございますナ。その名は「正岡子規記念球場」。

明治時代にアメリカから伝えられて間もない野球を上野公園にあった運動場で楽しんでいた正岡子規(※)にちなんで名付けられた施設。そばには「春風やまりを投げたき草の原」と子規の歌を刻んだ碑がございます。

まさかこの年齢になって球場の前で立ち止まり、しばし草野球を眺めたり、連敗続きのジャイアンツ戦中継するラジオに耳傾け、相手チームがここ一番で元ジャイアンツバッターを投入してくる場面に運命の皮肉を感じたりする今日この頃に、まったく驚かされている次第でございます。

野球をする気は起きやしませんが、野球している人を見たいンです。これ、きっかけは有文堂書店で聞けた、木下さんの思い出からなンですよ。

 

つづく

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※・・・柴田宵曲著『評伝正岡子規』(岩波文庫、1986年)では当時のようすをこう伝える。

「けれども当時の居士(注 正岡子規)は文学に耽るといったところで、他の一切を抛擲(ほうてき)しているわけではなかった。ベースボールの如きは発病後といえども全く廃するに至らず、定盤会寄宿舎内にも二十人位の同好の士が出来たので、この年(注 明治23年、子規24歳)三月二十一日に上野公園博物館横の明地(あきち)で試合をやったことが『筆まかせ』に出ている。」

文責・板垣誠一郎

〈2017年5月配信!〉 
神田三崎町と有文堂書店の100年。 ── 店主・木下長次郎さんにきいた思い出ばなし。

投稿者: 東京のむかしと本屋さん編集部

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